口ノ里棚田での米づくり

鹿町町口ノ里棚田

長崎県佐世保市鹿町町は、日本本土最西端の地でもあり日本の美しく豊かな自然環境が残っている場所です。

隠れ里「口の里 棚田」について

隠れ里「口の里 棚田」は、長崎県佐世保市鹿町町に位置し、棚田の回りは山と九十九島の海に囲まれています。
「口の里 棚田」がある鹿町町の稲作の歴史は古く、稲作が日本本土に伝来した縄文時代後期から稲作が行われていた地でもあります。
周辺の海では、歴史の授業で習うような「松浦における元寇襲来」や、平戸においては「オランダ商館が建設された」など、江戸時代初期までは海外との交流の中心となるような地でした。

そんな鹿町町の名前の由来は、

「鹿を待つ村」 

古来より鹿や猪といった野生動物との共生をしていた地です。
江戸時代に入り「待つ」が「町」と変わり「鹿町村」になり、その後、明治終わりの町村制により鹿町町となりました。
さらに、明治時代には北松炭鉱の一角を担い、従業員数1万人を超える大規模な採掘作業が行われ、エネルギー革命以前の日本の進展に貢献していました。

しかしながら、そんな大盛況も束の間であり、昭和48年の閉山とともに鹿町町の人口は激減してしまいました。
明治時代には1万人をも超える人が行き交いしていた町が、昭和55年に6,300人、そして平成30年には4300人と半分以下まで減少してしまいました。
そして、もう一つ問題が高齢化です。炭鉱を担っていた屈強な若者たちも今やおじいちゃん、おばあちゃんになってしまいました。

そんな歴史の激動の中でも、鹿町の隠れ里「口の里 棚田」の稲作は、山の中で今も変わらない景色で縄文時代からひっそりと受け継がれてきました。
縄文受け継がれた山頂に湧き出る山水は、今もかれることなく脈々と受け継がれ、江戸時代には綺麗に整備され、夕日が島に沈む美しい棚田が形成されていきました。

また、昭和に入るとトラクタなどの機械が導入されるようになり、小さい田んぼでは生産能力が出せないため、機械が入る大きさまで区画整備が進み生産性も向上しました。
特に、口の里の棚田の中でも五郎作地という極少数枚の田んぼは、一等米地として知れ渡ったようです。

この地域では縄文時代に稲作が伝来して以来、絶えることなく米づくりが行われてきました。私たちが米づくりを行なっている場所は、「西海国立公園九十九島」を見晴らすことができる美しい自然が残る棚田。江戸時代には正面に見える平戸島のお殿様に米を献上して、この地域の米は美味しいということから「口ノ里」という名を与えられました。

棚田の現状

そして時代は変わり、平成に入ると地域の高齢化が加速。
棚田は一枚一枚の面積が小さく、大きい農業機械が入らないため人間の力が必要不可欠です。
さらに「米農家は儲からない」ので担い手はいません。
農家さんたちは「自分が代々受け継ぐ土地だから荒らしたくない」という思いだけで続けている方がほとんど。今や口の里地区43世帯のほとんどが高齢者となりつつあります。
小さい機械も入らないところは耕作放棄され、その面積は年々増加しています。区画整備も途中でやめてしまう人も続出し、後継者もいないまま小さい田んぼは耕作放棄されていきました。縄文時代より続く棚田が今危機的状況にあるのです。
この口ノ里棚田も例外でなく、高齢化が進み平均年齢は60歳に近づいています。受け継いでいる若い世代も農業機械が壊れたら離農する。会社勤めしながら休日に稲作をし、会社の給料で農機具を修理する生活に疲れた。そこまでして米づくりしなくてもいい。という雰囲気になってきています。

 そんな地域の宝を守りたいと2015年から土づくりを始めました。

九十九雫(ツクモシズク

 

九十九島を見晴らす自然豊かな場所でつくった米一粒の米に7人の神様が住んでいる モノに神様が宿る九十九神米は八十八の仕事 土は十一の仕事 合わせて九十九古代から大切にされてきた思いと、私たちの思いを合わせて九十九雫(ツクモシズク)と名付けました。